なぜ高島易団の総本部なのに「神聖館」がつくのか~高島易断の歴史~
高島易断総本部神聖館の歩み
はじめに
易と言えば”高島易”と多くの方が連想される程、今でこそ日本中でその名が有名になっている「高島易断」ですが、ここまで世の中にその名を広めるには、初代高島呑象(高島嘉右衛門)を始めとしまして現在に至るまでの歴代の先代達の、並ならぬ研鑽・努力と強い意志がありました。
一方で現在、日本中各都市どこにおいても、数人の占い師が、元々高島易断や初代高島呑象と何の関わりも無いのに「高島易断」を勝手に名乗り、間違った指導をしているのを多々見受けます。また、ここ高島易断総本部神聖館で教えを受けた若い先生の一部が、途中で目的を違えたため破門され、その結果、別の団体や分派を興し、「高島易断総本部神聖館」と似た名称や、本部・総本部・総本山などと色々と銘打って宣伝し活動をしています。
しかも本来、人の不幸を救うための理は宗教宗派を越えて存在するものなので、不幸を救うための活動は宗教宗派に囚われずに行なわれるべきなのに、仏教の一派と提携し、その上相談に訪れた人に対し「人相に凶相が現れている。僧侶による祈願が必要だ。」などと相談者を半ば脅かし、高額な金銭を納付させる団体すら中には存在します。なぜ、そもそも「高島易断」が、仏様による加護と僧侶による修養にすげ替えられてしまわなければならないのでしょうか?
このように「高島易断」の名が乱立し、それらを登記によって法規制出来ないとなると、悩み困っている方々が安心して「高島易断」にご相談下さることが出来なくなってしまいます。また、私共としましても、お困りの方々が迷われて、お救いするのが遅れてしまうのを何としても改善しなくてはなりません。
そこで、以下では、「正統な高島易断」としての責任といたしまして、「高島易断総本部神聖館」の現在に至るまでの歩み・歴史を詳述させていただくことにより、皆様の信頼とご理解を得たいと思います。
高島易断総本部神聖館は、古い歴史と伝統に支えられたものであります。高島易断を創立したのは高島嘉右衛門(号名初代高島呑象)であります。高島嘉右衛門は江戸・明治・大正の日本の激動期に生き、易の重要性とその素晴らしさを遺憾なく発揮し、世の人々に易を知らしめた易学者であったと同時に横浜の発展に貢献した横浜にゆかりの深い実業家でもありました。
高島易断の歴史
高島嘉右衛門は幼名清三郎といい、天保三年(1832年)11月3日、江戸京橋三十間堀町の材木商兼普請請負業(建築請負業)、遠州屋嘉兵衛の嫡子として生まれました。少年の頃から商才を発揮し、父の跡を継いで江戸にて材木商を営み、安政5年6月に横浜が外国に開港されたのを機会に「肥前屋」という店を開き繁盛しましたが、禁制の金銀貨取引のトラブルに巻き込まれて投獄されました。
当時の江戸伝馬町の牢獄は極悪人ほど巾をきかす想像を絶するひどい所でしたが、生れつき頑強な体質と鍛えた体力と気力で悪党どもを制圧して、三か月ほどで牢内でも安全な地位となりました。
かつてこの牢には吉田松陰などの幕末の志士・論客が多数入牢しており、恐らくこれらの中の誰かが残していったと思われる『易経』の上下2巻を畳の下から発見しました。彼は幼少の頃から父の手ほどきを受けて、素読を学び、生れつき暗記力が強かったので、四書五経(儒教の経典の中で特に重要とされる九種の書物の総称)は殆ど暗誦できるほどで、五経の筆頭にあげられる「易経」についても、充分理解できる能力は身につけていました。
それまでは家業に追われ本を見る余裕もなかったのが牢の中で何もすることが無い為、むさぼるように読み六十四卦の卦辞はもとより三百八十四爻の爻辞を全てを暗誦するまでになりました。足掛け6年にわたる牢獄生活も無駄にしなかったのです。後の高島易の基礎はこの時確立されました。
釈放後江戸追放になったのを機会に横浜に定住し、高島呑象と号して易理を持って人々を導くようになりました。呑象は易を世に広める傍ら、事業家としても多くの事業を営み、主な事業を列記しただけでもそのスケールの大きさには驚かされます。
まず日本で初の本格的な和洋折衷洋式ホテル「高島屋」を建立しました。三条実美・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文・大隈重信・福沢諭吉ら当時の明治政府の殆どの要人が、船で関西や外国に行く時は皆高島屋を利用したため、彼らを立筮し交際を深めることが出来たのと同時に欧米の最新情報を得ました。
他にも、東京~横浜間に日本で最初の京浜鉄道を敷設、日本で初のガス会社を創立しまだ電灯の無かった時代に日本で初めて横浜の町にガス灯を灯した、横浜港の埋立て(今の高島町)、その一部を横浜停車場用地として政府に寄付(今の横浜駅)、横浜港の築港・灯台の敷設(現高島埠頭)など、主なものでも数多く現世に残る事業を行ないました。
これらの功績が認められて民間人としては初めて明治天皇より「正五位勲四等」を贈られました。その後、彼は実業界から身を引き、易学の研究に没頭しました。その後も首相の伊藤博文とは、伊藤博文の長男博邦が嘉右衛門(呑象)の長女たま子と結婚していることもあり、特に親交がありました。彼が博文の満州行きを占って大凶の占と判断して、博文に旅行の中止を進言しましたが、博文が満州へ赴き、ハルピン駅頭で凶弾に倒れたのは余りにも有名な話です。
呑象が死の直前まで言い続けた言葉に、「虚空無限」(易の神秘は無限であるという意味)があります。そして死の数日前には遺言のように「ことごとく易を信ずれば易なしにしかず」という謎の一言を残しています。
大正3年10月17日未明、嘉右衛門は枯れた大樹が倒れるごとく享年83歳にて息を引き取りました。
嘉右衛門には「長政」という子供がおり、父の事業は継いだが易は継ぎませんでした。常々、嘉右衛門は、易は学問として研究しているのであって、易で身を立てることはしないと公言し、表向きには正式な弟子をとることをしませんでした。
しかし、初代の意志と研究の成果を継承した門下生が5人おり、そのうち2人が後世において特に積極的な活動を行ない活躍しました。1人は「高島呑象二世」と号し、もう1人は「小玉呑象」で、2人のうち「小玉呑象」はアメリカにおいて活躍し「マジックステッキを使う易者」として有名になりました。「高島呑象二世」は日本において正統な易を後世に伝えるために正式に易断を組織し、名称を「高島易断神聖館」と名付けました。これが現在の「神聖館」の名称の源であります。
その後、呑象二世は全国を廻って鑑定指導を続けましたが、北海道・札幌の地にて病魔に倒れ、弟子の高島象峰(三代目)に神聖館の印鑑(石彫)と鑑定料金表と当時の金十円札2枚を添えて手渡し「高島易断神聖館を盛り立ててくれ」との言葉を残し、他界しました。
高島象峰は、その後先代の意志を継いで活躍し、易理を通じて人々の指導に当たっていましたが、昭和18年9月に召集令状を受け、満州新京2,600部隊に入隊し、満州北部を転戦し、大連にて終戦を迎えました。昭和23年5月に一般引揚者の最後の引揚船にて九州博多の地に戻り、その後、博多の千代町に居所を定め、再び高島易断神聖館として活躍しました。
高島象峰は昭和42年の秋に大阪の難波の宿で病に倒れ、体力の限界を感じて、弟子の高島龍峰を後継者として指名し、昭和43年9月1日付にて知人立ち会いの上、高島龍峰が四代目会長を継承しました。
「高島易断神聖館」を引き継いだ高島龍峰は、易断の名称を「高島易断総本部神聖館」と改め、血の滲むような努力を重ね、「高島易断」の存在を確固たるものとしました。政界・財界・芸能界等との深いつながりが出来、日本のみならず、アメリカ、中華民国(台湾)、シンガポールなどにおいても活動をしました。また、日本で唯一の易の祈願神社「高島神社」を建立しました。
平成4年2月に高島龍峰は第一線から身を引き顧問に退き、後任に高島龍元が五代目会長として就任しました。高島易断の総帥としての激務と日頃から体調が悪かった五代目高島龍元は、体を壊し、体力の限界を悟り退き、後任に六代目会長「高島龍院」が就任しました。
平成7年6月に六代目会長を継承した高島龍院は、伝統ある高島易断総本部神聖館のさらなる発展と混迷した世相の立て直しの為には、若い力と新しい発想が必要なことを痛感し、数々の改革を断行しました。占いが遊びと化しているのを憂い、本来占いは遊びではなく生きる指針であるべきとの信念のもと、改革の傍ら、「易は人を観るだけではなく、人を救う道でなければならない」という基本理念を明確に打ちたてました。そして、諸改革に道筋をつけた後、従来より神聖館随一の論客として秀でた活動を行なっていた高島龍照に後任を託しました。
平成10年4月より七代目会長に高島龍照が就任しました。高島龍照は易の霊感を持ち優れた感性を生かした鑑定を広く精力的に行なっておるのに加え、高島神社総帥の激務をこなし、文才にもすぐれ、年末年始に発行されて毎年大変ご好評をいただいている神聖館暦の執筆改訂も行なっておりました。
平成から令和という時代に移り変わり、新しい時代には若い力が必要と感じ、自らは最高顧問に就任し、後任に道を譲ることも決めました。
令和4年より八代目会長に高島龍星が就任しました。七代目会長高島龍照の実子ということもあり、幼少の頃から高島易断神聖館の歴史や伝統、易占についてなど高島易断の全てを直接指導受け、さらに独自の理論を編み出すなど次第に頭角を現していきました。七代目を引き継ぐ際には、高島易断神聖館の歴史上最も若い会長の就任ということもあり話題にもなりました。
八代目は特にインターネットやモバイルなど現代社会に不可欠なものに力を入れ、新たなシステムの導入や、皆様に分かりやすい表現など親しみやすい方法で高島易断について広めております。
高島龍照、さらに高島龍星が今の若い人にも分かりやすい表現で執筆した神聖館暦は非常に有益なので、当サイトの出版物のページもご覧になり、ご検討下さい。
以上、歴史が長いため大変に長くなってしまいましたが、きちんとした正しい「高島易断」のご理解の一助になれば幸いでございます。